ワレモノ注意

あなたは年間でいくつくらいお皿やコップを割りますか?
近年、私は数えるのが嫌になるほど、割っている。
最近は週1ペースでコップや皿が我が家から姿を消していく。

子供の頃、私はモノを壊したり割ったりした経験が全くなかった。
これは自信を持って断言できる。
それだけ注意深く、慎重な子供だったのである。
とにかく丁寧にモノを扱うようにしていたし、触れただけでヒビが入りそうな代物には無用に近寄ったりするようなマネはしなかった。

それが、いい大人になった今、食器棚から大皿を引っ張り出そうとして、その上に置いてあった小皿も引き出してしまい、うっかり床に落としてしまう始末である。
子供の頃の私が見たら、せせら笑いそうな光景だ。

してみると私は、大人になるにつれ、注意力が散漫になり、用心深さは年々浅くなっている、ということになる。

人には本来、学習能力がある。
子供の頃にモノはこうすれば割れてしまう、と身を持って学ばなかった私には大きなハンデがある。
しかも、大人の私は子供の頃には想像もしなかった、常に心の疲労を抱える複雑な日常生活を送っているのだ。

しかし、悪いことばかりではない。
実を言えば、私は密かに心地よさも感じている。

キッチンに立つ。
食器をとる。
食器が手からすべり落ちる。
あ、と思う。
受け止められずに床に落ちる。
破壊音と共に、原型とは似ても似つかぬ形に変わり果てる。
その刹那、そこにあるのは形あるものの潔さなのである。

そひて、一つを失えば、一つが入ってくる。
今まで食器棚の奥でナリを潜めていた食器が日の目を浴びるようにもなった。
ちょっとした輪廻転生だ。

とはいえ、いつまでも割り続けているわけにもいかない。
ワレモノは注意して扱おうと心に決めた6月である。

底なしエスカレーター


東京ではさほど珍しくもないだろうが、トロントでは南北と東西のラインが交差でもしていない限り、地下鉄はそれほど深くはない。
しかし、ヨークミルズ駅は別である。

写真はヨークミルズ駅から地上に上がるエスカレーター。
実際は、エスカレーターの一番下に立った時、頂上が見えないくらい深い。
地上から降りるときはまるで底なしのエスカレーターに乗っかる気分である。

そして、高所恐怖症の私はこれがどうにも怖い。
下から見下ろすよりも、上から見上げる方が足がすくわれるような不安な感覚が強く起こる。

週に1回、仕事でここを通過する必要があるのだが、数ヶ月経った今も上りのエスカレーターに足を乗せる時、ちょっとしたドキドキ感を味わう。

そして、頂上が近くなり、視界が開けて、駅のガラス戸から差し込む自然光が目に入ってくると、なんとも言えぬ安堵感に包まれるのだ。

こういう体験を繰り返すたびに、心臓が強くなってくれれば儲けものだが、
そういう事実はないらしい。

記憶と記録

少し前に、トロントスター紙に片目が義眼のトロントを拠点に活動しているドキュメンタリー映画監督ロブ・スペンスが、義眼の代わりに自分の眼にアイ・カメラを入れたというストーリーが掲載された。

現在36歳になる彼は11歳のときにショットガンで遊んでいた際、暴発が起こり片目の視力を失っている。
ある日、携帯電話に内臓されているカメラを何気なく眺めていたときに、この小さなカメラは自分の眼にフィットするのではないかと閃いた。

スペンスはマサチューセッツ工科大学にある装着可能なコンピュータ研究を行っている部門と、携帯電話やコンピュータ、内視鏡専門のカリフォルニアにある企業オムニ・ビジョンのサポートを得て、このアイデアを実現させた。

自らを「アイボーグ」と呼ぶスペンスはブリュッセルで行われた記者会見で、本物と同じ眼のヘーゼルカラーの眼で登場し、その完成度の高さを披露している。

「ドキュメンタリー映画監督として、アイコンタクトは非常に重要」とその満足度を語ったスペンスは、当然のことながら、眼を通して撮影された画像の使用は本人の許可なくしては使用しないこと、そしてプライバシーの問題についても重要視している。

ハイテクの恩恵を人間の体が受けるようになって久しい。
それはさらに自然な形へと進化している。
まったく凄いことである。

ところで、どこかでこんな一節を読んだことがある。
自分がとても楽しみにしていたことがあったとする。
それが本当に楽しいのは、それが起こる前と起こった後で、最中はそれほどでもないものだ、と。

たとえば、気の合う仲間と旅行に行く計画を立てたとする。
行く前はとてもワクワクしている。
楽しみで楽しみで眠れないほどワクワクしている。
でも、旅行中は期待していたほど楽しいものではなかったと落胆することもあるものだ。

それでも、旅の後、ケンカをした友と思いがけず笑い合っている写真を見つけたりすることがある。
やがて思い出を語るとき、楽しかったことばかりを思い出し、忘れ難い記憶となって自分の中に残るのである。

記憶は、自分の望むように頭の中に積み重ねられていくものらしい。
現実と記憶の間には、少しズレがあるのだ。

では、現実とは何だろう。

記録が必ずしも現実=真実なのだろうか。

写真や映像は、その断片に過ぎないはずである。
記録と記憶は、実は両方ともとても曖昧なものなのではないだろうか。
真実である現実を体感できるのは、やはりその瞬間、そこにいる自分だけだと私は思う。

一番確かな真実は、瞬時にして過去となって流れ去る「今」という時間の中にいる自分なのではないだろうか。

映画評「The Last Pogo」


リアルを求めていた時代、それは70年代ではないだろか。
インターネットなどなく、本音と真実を渇望する者は人と人とのネットワークで情報を求めた。
そんな時代の証人の一つがドキュメンタリー映画「The Last Pogo」と言えるかもしれない。

1978年12月1日。
トロントのクイーンストリートにあるHorseshoe Tavern。
そこで一夜のパンクロック・コンサート「The Last Pogo」の開催が決まった。

Horseshoe Tavernは、店の奥に本格的なステージが設えてあるライブ・ミュージックが楽しめる店である。
監督のコリン・ブラントンは十代の頃、ここで数ヶ月間働きながら、遊びの根城にしていたという。

ローリングストーンズやジェフ・ベックがお忍びで訪れることでも有名なこの店では当時、バンド選びに強いこだわりを持っており、Talking Heads、B-52’s、The Policeといった、今ではすっかり大御所のバンドも出演している。
ローカルバンドを入れたら、数え切れないほどのバンドがこの店を駆け抜けていったことになる。

さて、すでにカレッジで映画制作を学び終えていたブラントン監督は思いつきで、「The Last Pogo」の模様をショートフィルムにまとめると公言、完成させたのが本作だ。
YouTubeの片鱗も存在していない頃のことである。

パンクは特にカルチャーやメッセージ色の強いジャンルだが、今のトロントにこんなムーブメントがあったのかと驚かされた。
彼らは自分たちのスタイルで、怒っている、嘆いている、無防備にさらけ出している。
銃を持っているのは警官と泥棒だけの70年代のトロントのリアルがここにある。

オーディエンスの数は収容人数の倍に膨れ上がり、ステージと客席が一つになって音楽に乗った人々の感情のボルテージが打ち上げられたロケットのような勢いで上昇していく。
やがて後戻り不能のどうにもならない危機感が会場を包み込んでしまった。

遂に警官が現れてコンサートは終焉を迎えるのだが、警察の力に屈せずバンドが1曲を敢行してステージを降りると、真実とリアルを求めるオーディエンスの抵抗はさらにパワーアップしていく。
終焉が来たと知りながら。

音楽には嘘がない。
今も昔もこれからも。

The Last Pogoウェブサイト http://www.thelastpogo.net/

謎のフルーツの正体

前回の謎のフルーツの正体は、博識な我が読者のおかげで解明されました。
答えは、パッションフルーツです。

食べ方はいろいろあるでしょうが、基本的には2つに割って種ごとスプーンですくって食べて正解。

ビタミンA、βカロチン、クエン酸、ビタミンCが豊富に含まれていて、健康にもいいパッションフルーツは少々高価ですが、疲れた体にはお勧めのフルーツと言えるかも。香りもよく、ちょっとクセになりそうです。